阿江ハンカチーフ(1)『明治初年から続く播州織の老舗企業。〝一代ごとに第二創業〟で家業を発展させる』

地元加東市で150年の歴史を誇る播州織の老舗企業

中国自動車道「滝野社IC」を下りて北野の交差点を北に折れ、加古川にかかる橋を渡ると下滝野地区(兵庫県加東市)に入る。播州織の老舗、阿江ハンカチーフ株式会社はこの下滝野の地で明治初年に創業し、今日まで150年にわたる歴史を守り継いできた。

これは1950(昭和25)年当時の同社を描いた鳥瞰図だ。



織物工場特有の〝ノコギリ屋根〟が建ち並ぶ絵図に往時の活気を感じるように、「当時最大で100名ほどの女工さんが働かれていたと聞いています」と五代目の阿江克彦社長は説明する。

糸を染めてから織る「先染め」が特徴の播州織は、西脇市や多可町、加東市など北播磨地域で200年以上の歴史を織り重ねてきた。なかでも戦後の復興期から高度経済成長期にかけて産地は空前の好景気を迎え、織機(しょっき)が「ガチャッ」と音を立てるごとに1万円儲かるとの含意から〝ガチャマン景気〟と呼ばれたほどだ。

九州など西日本各地から女子労働者が集団就職で北播磨にやってきたのもこの時期で、産地の大型工場が受け皿となった。

「当社も女工さんの力を借りるために各地の中学校に訪問し、採用活動に力を入れました。『お茶やお花などのお稽古事も教えて立派な娘さんに育てます。ぜひ当社に受け入れさせてください』と先生方にお願いし、生徒さんを送り込んでもらっていたようですよ」



阿江社長がそう話すように、敷地内には2階建ての寮があり、女子労働者を住み込みで受け入れていた。その寮は現在は使われていないものの、現存はしている。鳥瞰図でいえば、ノコギリ屋根の工場の対面に位置する建物がそれだ。

ちなみに鳥瞰図にある橋はいまはない。代わって当時の工場敷地の右端にあたる場所に道路が新設されて橋がかかり、現在に至っている。

時代の変転とともに事業規模を拡大

播州織の産地では、先に染めた糸のことを「色糸」とも呼ぶ。この色糸の並びを綿密に設計することで、複雑な模様や図柄、色彩豊かなグラデーションを表現できるのが播州織の特徴だ。



この播州織はもともと平織りのシャツ地として使われることが多く、阿江ハンカチーフも創業以来、衣類用の生地などを手がけていた。大正時代には海を渡り、統治下の台湾にも生地を売り歩いていたという。明治という近代日本の幕開けとともに産声を上げ、歴史の変転の中で事業を力強く前進させてきたのだろう。

そんな同社は戦後の1948(昭和23)年に株式会社阿江織布工場として法人成りを果たし、100名規模の従業員を雇う大型工場に成長。産地の生産量拡大に貢献する一社として活躍を続けた。

高難度商品に挑戦する先代の覚悟

その後、1965(昭和40)年には阿江織布株式会社に、さらに1970(昭和45)年には現社名となる阿江ハンカチーフ株式会社にそれぞれ商号を変更している。とくに社名に「ハンカチーフ」の名を冠した後者の商号変更は「四代目を務めた私の父の覚悟の表れ」と阿江社長は話す。

同社がハンカチの製造に着手したのは1960年代後半のこと。ハンカチをつくるのは後述のように高度な技術が必要で、当時の播州織産地にはハンカチを手がける業者はほとんど存在しなかった。そのなかで、四代目がハンカチに着目した背景にはふたつの理由があった。

「ひとつは多色展開が可能な高価な織機を所有していたこと、そしてもうひとつはその織機を使って付加価値の高い生地を製造する技術を持っていたことです。この設備と技術を活かして他社と差別化するべく、ハンカチという高難度の商品に目をつけたのです」

ハンカチは、単純に布を四角く裁断・縫製しているだけと思うかもしれない。しかし実際には、その正方形の中に「無限の芸術」があるといえるほどに技術の粋が凝縮している。



「まずは正方形に仕立てる技術です。播州織のような繊細な織物は加工後に縮みます。ですからそのサイズ変化の誤差も想定したうえ、緻密な計算のもとに目的の寸法でピタリと織り上げる高度な技術が必要なのです」

さらに阿江ハンカチーフが手かげる高級ハンカチの場合、デザインや手触りに変化をつけるために、糸の番手や密度を部分的に変えたり、組織(織り方)を変えたりすることがある。その意味でも織機の扱いには高度な職人技が求められる。

加えて実際に織るまでの準備工程も大変だ。先染めの糸を織り上げていく播州織は、何千本もの色糸の並びによって全体の図柄が表現されていく。したがって図案を起こし、その柄を忠実に再現するために色糸の本数と配置を決め、並べていく「整経(せいけい)」と呼ばれる準備工程が必要となるが、ハンカチの場合はこれが簡単ではない。

「たとえば一般的なストライプのシャツ地はいくつかの色糸を一定間隔で並べるだけなので複雑な設計は必要ありません。ですが縦横のサイズが決まっているハンカチで多彩な模様を表現しようとした場合、どの色の色糸を何本ずつどこに配置するのか、綿密に計算しなければならないのです」

整経作業によって並べられた経糸(色糸)を織機にかけるためには、「経通(へとお)し」と呼ばれる準備工程も必要となる。これは何千本もの経糸(たていと)を筬(おさ)と呼ばれる串状の道具に通していく作業のこと。一本一本の糸を人の手で通していく根気のいる作業で、仮に一本でも引き込みを間違えると設計図どおりの柄にはならないため間違いも許されない。

「これほど複雑な準備工程も経たうえ、高度な織物技術を駆使して織り上げることで、ようやく模様を崩さず、歪みも少ない正方形のハンカチに仕上げることができるのです。ここまで手間隙のかかる織物はハンカチ以外に見当たりません」

こうしてでき上がったハンカチは特有の光沢と軽くてしなやかな風合いがあり、まさに「無限の芸術」と呼ぶにふさわしい輝きを放っている。

「先代はこのハンカチにシフトする決意で技術を磨き、日本を代表する大手メーカーとの直接取引を実現させました。現社名に変更したのは、『今後はハンカチに特化していく』という先代の覚悟に他ならないのです」

OEMでブランドハンカチを5000種以上も世に

ハンカチ業界には大手が2社あり、阿江ハンカチーフはそのうち1社と取引できたことで業績が安定することになる。そして1980年代後半、先代が目指した事業構造の転換は現実となり、同社はハンカチの製造に特化するようになった。以降、産地でもっとも難易度の高いドビー織やジャガード織の技術を駆使し、OEMによってブランドハンカチを5000種類以上も世に送り出してきた。

「ちょうどハンカチ一本に絞ったころ、播州織産地の生産量はピークを迎えます。当社もフル生産が続き、増え続ける受注にいかに応えるかが重要課題でした。先代は外注先を確保するために、機械を買って貸与したりもしたそうです」



ところがその後、産地の生産量は減少していくことになる。原因は、国内需要の縮小と安価な海外製品との競争激化である。

1985(昭和60)年のプラザ合意以降、急激な円高の進行で国内の輸出産業は大打撃を受け、播州織産地も厳しい環境にさらされていく。結果、播州織の生産量は1987(昭和62)年にピークを迎えたのち、減少に転じる。

その状況に追い討ちをかけるように、バブル経済崩壊による国内事業の低迷や安価な海外製品の流入により、産地の状況はさらに悪化。とくに輸出向けの製品はほとんどが海外製に追いやられてしまった。

五代目の現社長が家業に入社したのは1996年。日本全体が不況下にあり、播州織産地はすでに大量生産の時代を終えていた。

ピンチをチャンスに! 危機意識をバネに自社ブランド開発という新展開

大学卒業後に証券会社に7年勤務したのち、家業に戻った阿江社長。子ども時代は工場や事務所が遊び場で、当時まだ住み込みで働いていた女工さんにも可愛がってもらったという。



「阿江ハンカチーフを織物に例えると、100年以上も切れずに続いてきた経糸です。その経糸の延長のひとりとして生まれ育ち、大学まで出してもらって。卒業後は社会人としての道を歩んでいましたが、先代から継ぐ気はないかと聞かれ、戻ろうと決意したんです」

入社後、自社の業績や事業内容について理解を深めていくと、先染めのハンカチは国内向けの高級品なので海外との競合は限られていることがわかった。しかし産地の苦境をふまえると、安定した業績がいつまで続くかわからない。その危機意識のもと、阿江社長はこれまで築き上げてきた播州織の技術と経験を活かし、ハンカチ以外の商品を手がけられないか模索を始める。

「理由は3つで、1つ目は大手一社依存に対する危機感、2つ目はタオルハンカチの台頭による先染めハンカチの需要減衰、そして3つ目は産地衰退への危機感です。2004年に世代交代で社長に就任したのを機に、本格的に異分野への進出に取り組み始めました」

その結果、2008年にいわゆる〝ゴスロリ調〟の「傘」の自社ブランド「Lumiebre(ルミエーブル)」を打ち出し、業界に驚きを与えた。



さらに2013年には製織(せいしょく)技術を活かした自社ブランド「orit.(オリット)」をリリース。



いまやこの両ブランドは売上全体の3割の収益を生むまでに成長している(阿江ハンカチーフ(2)『祖業の播州織技術を活かして異分野に進出し、自社ブランド展開を軌道に――』)。

〝一代ごとに第二創業〟が老舗の存続・発展に不可欠

企業は「創業から成長、成熟、衰退、再生」に至るライフサイクルを一定周期で繰り返すといわれる。150年もの永きにわたり存続・発展するためには、経営環境の変化に合わせて企業自身が生まれ変わらなければならない。

「当社はシャツ地で基礎を築き、父が技術的に高難度のハンカチで第二創業を果たしたことで、産地が衰退する中でも生き残ることができました。その先代からバトンを受け取った私も時代に合わせた変革をしなければなりません」



世代交代は経営者の最後の大仕事といわれるように、事業承継を無事終えることが企業存続の条件であるのは間違いない。しかし単に事業をそのまま引き継ぐだけでは激変する経営環境に適応することはできない。

「当社がハンカチの製造に特化してから30年が経とうとしています。長寿企業は一代ごとに第二創業にチャレンジし、時代に合った事業構造に転換する勇気と覚悟が求められます。その一歩を踏み出すことで時流に乗り、さらに発展を続けられるのです」

祖業の播州織技術を活かした自社ブランド開発により、阿江ハンカチーフの生産量が拡大すれば、結果として産地を守ることにもつながる。自社の発展だけでなく、播州織を残すためにどうすればいいか――産地で生まれ、産地に育てられた老舗企業の模索であり、使命といえるのだ。

<関連記事>
阿江ハンカチーフ(2)『祖業の播州織技術を活かして異分野に進出し、自社ブランド展開を軌道に――
阿江ハンカチーフ(3)革新と逆行――。相反する2つの要素を融合し、祖業の織物を時代に合わせて進化させてきた


文・写真/高橋武男

【会社概要】
名称:阿江ハンカチーフ株式会社
事業内容:ハンカチーフ製造、各種生地製造、自社ブランド運営
所在地:〒679-0212兵庫県加東市下滝野593-1
電話:0795-48-2031
http://www.aehandkerchief.jp/

TOP